論語について

論語 巻第七 子路第十三の三
https://kanbun.info/keibu/rongo1303.html
にこうある。

漢文

名不正則言不順。言不順則事不成。事不成則禮樂不興。禮樂不興則刑罰不中。刑罰不中則民無所錯手足。故君子名之必可言也。言之必可行也。君子於其言。無所苟而已矣。

書き下し文

名正しからざれば、則ち言順わず。言順わざれば、事成らず。事成らざれば、則ち礼楽興らず。礼楽興らざれば、則ち刑罰中らず。刑罰中らざれば、則ち民手足を錯く所無し。故に君子之に名づくれば、必ず言うべきなり。之を言えば必ず行うべきなり。君子は其の言に於いて、苟くもする所無きのみ。

この訳をいろいろ調べてみたのだが、どうもしっくりこない。
疑問点がいくつかある。

  1. 「名」とはなにか。
  2. 「言順う」というのはどういう意味か。
  3. なぜ「礼楽が興らなければ刑罰が中らない」のか。
  4. 「刑罰中る」とはどういう意味か。
  5. なぜ「刑罰が中らなければ、民は手足を錯く所がない」のか。

「名」について

リンク先の「名分」というのはかなりしっくりくる。他の訳では「名前を正しくつける」といったのがあったが、なんのことかよくわからない。「先生(孔子)が政治を任されたら何をしますか」という質問に対しての答えとしてしっくりこない。「名」は、君臣それぞれがどういう理念をもって、どういう役割を果たすべきか、をまずはっきりさせる、と言っているのではないか。越権行為や本筋から離れた行為を非として、何を為すべきかを明らかにする、と言っているのではないか。

「言順う」について

理念が明確になっているからこそ、目標達成に向けた議論に筋が通るのではないか。それぞれの利害で動いていたら、意見(言)は「名」と整合せず、道理に合わなくなるだろう。そして、個人の利害を超えた組織の目標達成に向けた議論が行われて初めて、事を成すことができる。

「礼楽興る」について

良い政治の結果として「礼楽が興る」。これはどういう意味だろう。文化振興という説明もあった。私はそうではないと思う。「礼楽」は、今でいうと道徳心のようなものではないだろうか。「礼楽」はおそらく難しい領域なんだろうと思うのであまり深入りしないが。

「刑罰中る」について

人として守るべき分や他の人とどのように付き合うか、といったベースを民衆が共有して初めて、「犯罪として取り締まるべきもの」が明確になるのではないか。日本では拳銃の所持が取り締まられるのに、アメリカではそうではない、というのは良し悪しというより、共有しているベースが違う、というべきだろう。とにかく、「中る」というのは、ある犯罪の是非について意見が別れないような状況だろう。
だからこそ、民衆は自分たちの行動が「これは犯罪になるのでは」と疑心暗鬼になることなく、のびのびと生活できる。ということなのでは。

と、私は勝手に理解して、しっくりきている。

ちなみに、「言順う」の解釈を考えたところで、有名な「六十にして耳順う」を思い出して、この解釈に悩み始めたがとりあえず措く。